2009年度第1問 原 研哉『白』①
一見簡単な「評論」を珍しく出題した大学の意図とは

 国語総合の教科書にある文章で、授業で取り扱ったついでに投稿します。原 研哉の『白』です。

 この記事のタイトルの通り、「評論」の中でも明確な「現代の技術文明批判」をテーマとしていて、難解なことは何もないような初歩的な文章かのように扱われることも多いのですが、東大の出題する第1問としては珍しく、かなり〝批評〟の趣の強い文章であり、筆者の主観による比較と価値意識に付き合いつつ、論理的な筋道(論理的である限りは客観的であるはずです)をトレースする、その両立の意識が読み書きともに要求されるという点で、とてもデリケートな出題となっていると思います。

 記述する要素を見つけるプロセスの学習ととらえて、記事を読んでください。

2009年度第1問 原研哉『白』①【概説】:
 ・評論文の〝評価(イイタイコト)〟の部分だけ掴んでも合格しませんよ

【2009年度 全体の構成的な読み取り】
 08年度『反歴史論』における〈r「歴史の重さ」〉にひきつづいて、〈r「白」〉という言葉が象徴する割と広汎な内容を整理して述べなければならないのが、記述の訓練の浅い段階ではわりと時間を浪費してしまう人が多く出るように感じます。

 また、結論だけを取ると〈r「白」という感受性〉、いわゆる〝センス〟〝美意識〟への評価ばかりが目についてしまうことでしょう。高校入試的なあらすじ読みの水準で行けば「初心忘るべからず」という結び付近の内容(徒然草の引用による例証)だけ読んで〝意味分かったんで簡単だ♫〟みたいな早とちりをする人も出てきそうです。

 もちろん、前後数年の過去問を読み解いているならば、08年度『反歴史論』では論じられる内容ごとに比較される対象が違うことについての書き分け、10年度『ポスト・プライバシー』では大胆な論理構成の整理、11年度『風景の中での環境哲学』では何気ない説明のなかにある論理展開の丁寧な差分の説明が問われており、そんな雑な読み取りで勝敗が決まるはずなどないことは分かりきっているのです。記述解答を完成させるプロセスのなかのどこかで、文章全体の丁寧な分析ができるように練習を積んでおくことが必要になるかと思います。

 今回の記事においての勘所を一言でいうと、この文章の要となるのは、〈r「白」という感受性〉にまつわる論拠やプロセスの正確な把握ということになると思います。そしてその答えは形式段落4・5段落にあり、稽古の段階の無限の「白」の積み重ねと、ひのき舞台における本番の「白」を明確に分けることです。

 稽古の段階の「白紙」の話は、4、5段落の(書道の練習)という具体例の文脈以外には述べられていませんので、結論の読解には関係ないと考える人も多いと思うのですが、そもそも「白」=不可逆性の美意識において、「もし」失敗し「たら」どうするのでしょうか?
 その「場合分け」=論拠②(条件分岐)について限定して、部分解だけを結びでかっこよく示して終わっている、これがこの『白』という〝批評〟のアピールポイントです。

 それでは、読解上重要な全体解はどこに書かれているのか。それを初見から十五~二十分で気付くにはどうすれば良いのかが最も重要ですね。
 最後の『徒然草』の引用では、一矢で的に当ててしまうこと以外のことを考えるべきでないという「思考停止」が推奨されていますが、それはあくまで「美意識」のうえでの話。ひとは、一般に、「失敗したら」その時にはどうなるのか?

 ――それについての条件分岐の前段階を述べているのが5段落なのですが、読み取りの戦略としてはおそらく三つあります。
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① 〈r「白」〉という象徴的表現・テーマ要素について、そのルーツとなる(具体例)を特別重視するようにする。
(=昨年度十月以降の記事で、「rとexによるストーリーテリング」を参照のこと)
② 〈r「白」〉というテーマ要素に関わる論拠や、その関連性(直線的な論理展開や、論拠が連鎖する網状のつながり)については、読解の段階から周到に把握確認するように努める。
③ 「条件分岐、場合分け」という論拠に出会った際には、単純にその分岐前の段階まで本文を遡るように意識しておく。

 これまでの読解戦略のまとめにすぎませんけれども、「ディスり構文の解決にはテキスト結論部を先取りすることが最も重要ではあるが、論拠や象徴表現についての読解はそこから全文を網羅する方向に行っていかなければならない」という点が少々やっかいなところです。ディスり構文は「筆者の論の不備を串刺しにしてぼんやりした筋道を識別していく作業」で、論拠や象徴表現は「筆者は意識して書いているのに散らばりすぎてて読者側が気付かないことがらを拾い集めていく作業」ということができるでしょう。筆者が上手でない部分と、読者が気付いていない部分という違いです。これらを同時に読み取っていくためには「いろんなパターンの文章に当たってきた経験値」と「戦略・道具として鍛え上げた読解手順のスピード」が必要となりますので、意識して演習を積んでいくしかないのかな、と思います。

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 出題されたテキストは、『白』というタイトルの一篇の全文ではあるのですが、同名の随想集が「白い」という漠然としたイメージで断片的な文章を同居させているため、この批評についても着地点が雰囲気重視の、既存の芸術全般における「一回性の美学」バンザイで終わっている無責任なところがあります。同名の随想集には茶の湯の話題なども載せられており、筆者が中世近世における美学や価値観を下敷きにして書き連ねていることはよく分かるのですが、世阿弥の「初心の三箇条(是非の初心、日々の初心、老後の初心)」に内容の多くを負っているであろう、その割には、話題が散らかったままなんですよね。(昨年の本試験直前に「世阿弥が出るかも」と要らぬ予言をしたのは、実はこの2009年度の文章に対する出題のあり方が踏み込み不足であることが気になっていたことによるものです)

 そして、この不備のある『白』という文章の論理的な理解にとって最もさまたげとなるものは、さきほどの「読み取りの戦略」の2つめに対する、一般的な認識の甘さ――すなわち「結論部における主張が包括的な議論になっているはず」とする、「論理展開=直線的で発展的」という誤った既成概念ですね。〈r「白」〉が象徴的な表現になっている時点で、この最終段落(弓矢の話し)は先述の4段落(習字の話し)のテーマ性を伏線として回収する(立ち戻るべき読解部分の存在する)相互補完的な主張になっていることに気をつけるべきですね。

 これらに気をつけて本文を読んだ場合に見えてくるのは、じつは「〝やり直すことが出来ない〟という一回性の美学」が、むしろ「次の晴れ舞台での成功を目指した、無限の『ぶざまな失敗』の〝累積・繰り返し〟」でできているということです。現代の共有される〈インターネット上の集合知〉とバカみたいに「近代vs現代」の対比の文脈で捉えてしまったとしたら、早々に思考停止してしまって、ここの深さは理解しようにも到底理解しようがないでしょう。冒頭にも述べましたが〝批評〟の文章が出ることは、研究機関である東京大学の場合きわめてめずらしい近年の変化なのです。これを「現代文明批判」みたいな軽薄なことを言って説明しているかぎりはまったく読めたうちには入らないのですが、小問の解説でくわしく説明していかなければ、これを読む皆さんにも分かってもらえないように思います。

 これは今回中学3年生に向けてsmbkの授業を行うなかでようやく気がついたことですが、おそらく一般的な演習2回くらいでの授業枠のなかでは説明されない部分だと思います。つぎの記事で本文の論拠の構成をおさらいしながら、説明していきたいと思います。


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