【プチ解説】二〇二一年度第4問 夏目漱石『子規の画』
十年後の現在地から照らす「無条件」の論拠

 
 この記事では、今年度の本試験・文科第四問の解説を簡潔に行います。毎年のように災害が続いたので、頃合い的にも厳粛な死・生命を取り扱う文章が出題される可能性は高い、と個別添削でお話をしていたところでした。
 夏目漱石だったのは意想外ではありましたが、幸田文のこともあるから、多少ベタで簡素な文学作品が出題されうるなどということもとこれまたお話させてもらっていたところで、そこまでの動揺はなく受け止めています。
 今年度あまりお話できなかった皆さん、ごめんなさい。コロナのため当日の見送り・応援も自粛が出ているようで今年は行かずに記事を書いています。
 皆さんとの接点が生きがいでもあったりするのですが︙︙、あまり時間もかけられないので、本題に入ります。

【主要な読解戦略】
 あるほどの 菊投げ入れよ 棺の中
 これは歌人の女性を哀悼して詠んだ句ですが、この文章は、そんな優しい漱石の、正岡子規を追悼した文章です。細かいところわからず申し訳ありませんが、この文章に関しては、子規に対して遠慮容赦ないところが仲の良さを表すと読むべきでしょう。二人の親交はよく言われるところですが、親しき仲ほど第三者には分け入れない独特の雰囲気があります。
 そして故人の死から十年という現在地において、筆者漱石は何を思い描くのか。

 この大問のコンセプトは、二〇一九年度『ヌガー』とよく似ていますね。お菓子(ヌガー)と同じように、具象物である子規の写生画(表装された画・手紙やその描きぶり・画風)によって象徴されているものがあります。好対照になっているのは、ヌガーは回想時の筆者(子ども時代)に社会の中の個であることを教えてくれたのに対し、子規の画は十年後・現在の筆者に対して、十年前の親友の誠意を届けてくれているという点、簡単に言えば十年を経ても一人じゃないことを教えてくれた、という点です。

 今回は、〈拙〉と敢えて極言してしまう漱石のレトリックが何を主張するかが問3問4で問題となりますし、きっと問3と4は〈拙〉の意味合いが違うという話になりやすいかと思います。第1問の「デハナク」悪文に引きずられて、あぁでもこうでもない云々と悩んでしまうことでしょう。

 けれども最終段落を見てください。重要なのは、
大きなエピソード(歿後十年のいま、確かにこの〈一拙字=「拙」の一言しかない〉を感じ取ること)は、今ココの現在地で、以下の☆を例証する
つまりそれは、彼(正岡子規)とのあいだの数多くのエピソード(永年の歳月の交際)から思いもしなかった、私に向けられた彼の〈拙〉
=「よほどの決心を要する病気中の根気仕事として、五、六時間ほどもの時間と労力を、愚直に几帳面にいらざる頭と手を働かせて、画面全体に丹念に注ぎ込んだ、彼らしくない無省略の塗抹主義」に対する、筆者漱石自身の多大なる興味(☆)
を例証している
、ということです。

 以上のようなexと〈r〉の、最終局面から照射するストーリーテリング(物語叙述上の関わりの整理)が、最終傍線部エ(問4)の主張を理解するうえでも最も肝要なところだったのではないかと思います。
そしてこれは同時に、問2「子規の画を壁にかけた様子のいかにもな淋しさ」の描写の意味を文章構造的に説明することでしょう。これで、ほとんどの問題は解決します。

【解答のポイント】
 まず何よりも、明治の文豪とかそういう配慮なしに小問の解答にたどり着くことです。
 リード文を見れば、文系専用問題ながら受験生は正岡子規さえ知らないという前提で出題されているということも明らかですので、友の死に向き合う親友の気持ちを、画を腐すテキスト本文から丁寧に読むことが重要です。
 壁に架けた画と対峙する段階(問2)ですでに作者の「いかにもな淋しさ」(文章結びから2行目・伏線の関係)は指摘されており、その〈画の拙さ(まずさ)の一字・極み〉が失笑か感服か結果どういう議論になろうと関係なく、筆者(余)は自分がいま〈親友の〈拙〉〉を認める・〈拙〉に向き合っている事実そのものに多大なる興味を禁じえないのです(問3)

 それがなければ、「写生文・短歌はあんなに巧みなのに、文人画には写実主義に拘泥してしまう正岡子規」の歌人としての性質とか、文人画と西洋画の関係とか当時の時代性の議論のぬかるみにはまってしまう。ここではそれは必要ないはず、そう私は思います。

 問4は、直前で「〈拙〉を感じる今ここの事実自体への興味」(=問3の内容)を語りつつも、画自体の〈いかにもな淋しさ〉の避けられぬ淋しさについては償い(金銭や対人間の負い目のエピソードは文中にないので、単純に「埋め合わせ」程度の意味と考えられます)をしたかった、という訴えですが、スケッチの対象である菊の一輪挿しが華やかになることは画題のうえでも無省略のリアリズムのうえでもありえないわけで、菊の本数を増やすとか画風をどうこうするとかではなくて、「親友にもっともっと雄大に丹念な根気仕事を続けさせたかった・時間と労力のひまを与えたかった」というところなのではないでしょうか。

 ここについては、最終段落において「相手が書いてくれた画の東菊の中に〈拙さの一字〉を認めた結果が自分に『論なく』=どんな評価を与えるかの議論に関わらず」と述べられたいわば「無条件」という名の無敵の大前提に注目する必要もあるのだと思います。
 アクティブラーニングがALESA・ALESSとして前期教養課程の教育の柱になってもう十年、定着してもう五年は経過しているかと思いますけれども、このコロナによる〈新しい普通〉、リモート講義のなかで、大学入試段階で少しでもそうした才覚を持った状態で学生を選抜したいと考えるのは自然なことでしょう。

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