最終年度のセンター試験への対策が必要な時期に入ってきましたね。現代文では問6を先に読む、選択肢は肢の末尾から消去法、本文にない限定をする論理的によじれた偽選択肢に注意、推定無傷の原則(記述作業と対照的に、exの前後に多少でもある情報は広い目で有効とみなす)が分かっていれば、構造的読解(記述の際の下読み、下処理)の延長で行けると思います。センター国語は灘や開成でも一人も200点を取れないのが毎年のことなので、神経質な読み取りに陥ってしまうのは時間のロスと失点のリスクが大きくなってしまうだけの悪手です。即かず離れずのトレーニングを続けて解法への柔軟性を保つようにお願いします。
実際には、二次試験の記述で解答要素を一つ気が付かない(約2点の失点)だけで、センター試験でいう読解の1問分以上の失点になるわけです。二次の理科/地歴で一つの大問ごとバッチリ対策どおり答えられる(約10点)かどうかが、センター試験の〝(自分にとっての)大失敗〟の失点幅と同じくらいに相当するわけです。トータルで得点すればよろしいし、二次現代文だけでもブーストできるところなので、センター対策に関しては、どうか自分なりにニュートラルな感覚で解答できるようにしておいてください。
きちんと積み上げることと、目先のことしか見ていないこととは全く別の事象です。先のことしか考えていないのもセンターに全振りも、一見集中しているようで感覚を鈍らせています。明確な学習の計画を立て、十一月までの二次対策の内容がちゃんと一月に繋がっていくようにさじ加減をしていきましょう。
さて、読解の戦略が整い、また2000年代の古風で難解な文章に慣れた今、解説途中になっていた二〇〇七年度『読書について(芸術の普遍性についての文章)』の解決を済ませておこうと思います。
記事が途中でもやもやしていた人も、様子見でやってこなかった人も、この年度は絶対に重要ですので目を通してください。忙しい人は記事が完結してからでも構いません。とにかくこの年度は解いておくべきです。
2007年度第1問 浅沼圭司「読書について」解き直し①:
・PBL的な読解戦略(高難易度):
ゲームチェンジャーの出現が論理展開をかき乱す場合の論拠の整序について
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この『読書について』は、業者による「東大の模擬試験」に有効な解き方〝exのグルーピング〟の応用例としての側面と、皆さんが私のことを忘れないうちに〝二〇二〇年度第一問 本命の出題予測パターン〟を提示する意欲的な演習としての側面の二つの様相を持っていました。
「談話・論説のマーカーとして、exの進行が最優先して読まれるべき」など、本文の下処理の基本的な部分を読解戦略として七月中に記事にできたのも良かったと思っています。あの段階でかなりの人に〝タケトミの読まない現代文(完結編)〟として記事を読んでもらえて本当に良かったです。
ただ、アクティブラーニング型の出題についての対応対策は、実は京都大学の「民芸の美」についての文章(工芸品の美についての筆者の勝手な定義と、それによる民芸品の勝利宣言)と「オウムガイ」の話(直接的な事実現実を化石が間接的に証すことを〝知る〟、その喜びについて)で扱ったきりで、それ以降高2の授業では行えていなかったのです。ALESSやALESAの紹介も断片的で、文中の論拠も「逃さず解答に積み上げていく」だけの厄介な解答要素として紹介したきりでした。
〈r〉、exによる伏線を見抜くための読解戦略を可能な限り多くの人に徹底してもらいたかったのが高2の限られた授業時間の範囲での私の思いだったのですが、時代が変わるなかで、論理的な思考と説明の力を入試段階で選抜し、かつ前期課程で他大学にないくらいまで鍛え上げるということが、東大の二次入試を実質的に司っている教養学部の明確なミッションとなっている現実(彼らが頑張らないと、東京大学大学院の国際研究機関としての命運が絶たれてしまう)があります。
高いレベルでブレインストーミングができて、しかもその議論の経緯を説明できるくらいの言語力が求められている。昔と違って、そうしたやりとりを積極的に学部内で行うことによって、一人でひっそりと〝そこそこの大学生〟を生きることができなくなっているのです。受験対策の仕上げとして、課題解決型学習(PBL)に即した高い水準の文章の読み方が必要であるということを、どうか信じてください。
[勝敗を分ける読解戦略]
さて、二〇一六年度「反知性主義者たちの肖像」、二〇一一年度「風景の中の環境哲学」の演習や、二〇〇五年度「哲学入門」二〇〇八年度「反歴史論」などの復習をふまえて、二〇〇七年度の本文の〝PBL的な側面〟の部分を読んでみましょう。
「exの前後で『設定された要解決の課題』を見つける」、「後出しの論拠①(前提条件、定義)を論理展開の最初に持ってきて、論理の道筋を整理する」というテクニックをこれまでに紹介したと思いますが、ここで求められているのは「後出しの論拠②(条件分岐、前提の変更)による議論全体の仕切り直し」です。
「ゲームチェンジャー」という言葉があります。当初は予期されていなかった状況や認識の抜本的な変化を余儀なくさせる、大きな影響力を持つ技術基盤のことを指し示すことが多いですよね。
この二〇〇七年度「読書について」、および二〇一〇年度「ポスト・プライバシー」は「状況認識・論理展開の途中からの〝コペルニクス的転回〟」を、文章前半の論理展開と、〝転回〟後の最終的な論理展開との両方の説明をすることによって説明を完成させなければならない、論拠の整序が難しい問題となっているということができると思います。
「タケトミの論拠②って〝仮定条件〟じゃなかったっけ?」と思ってくれる人もいるかと思いますが、説明の流れのなかで当初は想定されていない、サプライズとして読者に提供される条件分岐も多いのです。
7月末までの記事では、あくまで業者の大学プレテストへの対策を兼ねた「複数のexの活用方法」に重点を置いた説明になっています(一般的な読解戦略の水準から言ったら、exがたくさん、〈r〉って何ソレというだけで大混乱になるのは必定です)。そこまでのテクニックで行けば、後半に出てくるexのグループの方がよりいっそう筆者の主旨・結論に近いということが、最も少ない手順と手間で解くための戦略となったと思います。
しかしながら、「論拠の途中変更」っていうのは、つまるところ「場合分け」であり、そして覚えていますか、場合分けは分岐した条件のすべてをまとめるところまでが文章の主題なのです。〝芸術のジャンルの定義は変わって当然だ〟という認識によるゲームの流れの変化が、「恣意的な絶対性」によって定められていた過去の芸術の状況も、「革新する普遍性」によってどんどん変化する現代の芸術の状況も〝ジャンル〟の分岐(条件設定)によって説明できるようになり、まとめ上げることができるようにもなった。その条件パラメーター設定の有用性によるまとめこそが、この論説文の構造のポイントになっているわけです。
本文では、近代芸術に必要となる論理として冒頭1段落で挙げられた論拠が、意外なことにディスられることなく本文の後半にまで引き継がれており、全体的には複数の論拠が破棄されることなく積み上げられています。〝芸術のジャンルの働きかけかたは時代によって変わるのだよ、無論これからもね〟というかたちで芸術学の概論としての枠組みじたいは、拡張、アップデートを果たしつつそこにあり続けているのです。
それは「話題の推移」としては、本文最後のexが示すようにどんどん芸術制作の現場における新規性や制作行為自体の変化に向かってはいるものの、組み上がる「論理構造」としては「〝ジャンル〟パラメータの設定次第で、芸術作品を通時的に、ずっとキュレートし続けられる」という〝芸術学の永続性への気づき〟の物語なのです。
論理的に考え続ける営みに新たな気づきが与えられ、それがより深く大きな知性となる。なんてお話は駒場(前期教養課程)の教科書のド定番ですね。高校の先生も教養主義の大人も大好きだから本が売れまくる、東京大学出版会も大喜びのドル箱路線です。
今ニュースで騒がれている現行の教育改革に2年以上前から反対して、官邸(下村博文元文科相)とベネッセから圧力と恫喝を受けていたのが他でもない東京大学です。私はこの年度のような語り口の文章に大学自身が希望を見出して、来春の東京大学入学式の学長式辞に繋げたいというような望みを持っているのではないだろうか、と、ひそかに想像しているところです。
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