センター明けの直前演習コンテンツとして、お茶の水女子大学に行ってみましょう。
一橋のように実学重視でなくて、女子を京都に行かせまいとする首都圏上位の国立大、お茶の水女子大。直近の入試問題から見えることがきっとあるはず。
いま現代思想を出題されたら狼狽えるでしょ? どうやって解くか、ちょっとやってみましょう。
【直前対策演習】
2019年度お茶の水女子大学第1問
船木亨『現代思想講義―――人間の終焉と近未来社会のゆくえ』①【プチ解説】:
個人添削課題のついでにブログ掲載の承諾を受けましたので、年明け最初の記事はお茶の水女子大学の第一問から、当大学の傾向となっている哲学的文章を皆さんにも紹介します。
首都圏の大学は予備校のブレインとも関わりが浅からず、またそうした進学熱の受け皿として国立最上位の女子大学であるお茶の水大学はあると思われます。学科によっては数学抜きで国語が英語の倍のウェイトとなるため、本気で点を獲りにいかないとNYGの君たちであっても文系で合格することは難しいかもしれません。
関係のないような話で新年を始めるのは、センター+二次の合算で国立の出願を決める、いまが余裕や柔軟性などの点で精神的に点検が必要な時期と思うからです。
2020年度入試に対する私の傾向と対策の演習は、記事における解答解説の水準と分量としては10月あたりで例年のクオリティを完全に追い越してしまっています。4、5月に少し触れたように、ここからは論理力の高まった受験直前の君たちに、難しい年の水準でウォーミングアップをすることが重要です。そしてそれは学校の演習で各自で実践できるようになってきているので、基本的には自分で自信持って進めていってほしいと思います。
ただし、その精神面での余裕や柔軟性は、夏期講習や面談のときとレベルは違えど奪われてしまいがち(それを〝現実的な判断〟という言葉を使う愚か者もいる)なので、センターでも揺さぶられる現代文でちょっと変化球を味わってほしいなと思います。
【出題の概要】
※この記事は京都を受ける1、3、4組の皆にも「最終のオンライン演習記事」として読んでもらうつもりで書いています。
筆者の船木亨氏自体は、東大でも京大でも出題可能性の高い現代の論者の一人ですけど、ちょっと読みにくい文章というところがあって、模試の出典の方でよく見かける方です(東大出身、専修大学教授)。
このお茶の水の文章を一見して感じるであろうことは〝予備校の難しい問題に似ている〟〝現代思想のテーマを直球で訊かれている〟ではないでしょうか。そして読みにくいので、すっかり〝そういえばあんまり哲学的な内容やってこなかったもんなぁ︙〟という合理化(言い訳)を始める光景が思い浮かびます。
でもこれ、授業でもこの講座でもやってきてわかるように、出題したお茶の水大の先生からすると、2000年代の東大の出題水準の文章難易度(複雑性)を、京都が4行程度で書かせる出題内容で、論理的に考えさせるアシストをつけて問いかけている問題なのです。さすが最近の出題だけあって、安易な参考書の京大対策のようには適当な答案を書かせてはくれないのですが、阪大の過去問(特に2008年度くらいからやたら論理の構成について訊いてくる)をやれば明白であるとおり、京都大学の記述をロジカルに書かなくていいと思っている方が見当違いというものなのです。
君たちからすれば生まれる直前の話ですが、2000年度に近代の歴史資料の出題を取りやめた京都大学こそが、学術性の軸として「論理力」を受験生に求めるようになった二十一世紀最初の入試の改革者であったことを忘れてはいけません。高2前期学期に学習した〝民芸の美〟についての問題演習でも、筆者の論理展開(のずるさ、論点ずらし)をわかったうえで説明しなければならなかったように、文中の論拠である条件分岐や前提条件の流れの整序はやはり得点差が付く重要なポイントなのです。書きなれてきたであろう今だからこそ、論拠の整序を作業工程のなかにきちんと入れておきましょう。
※「論拠の整序」についての詳しい解説は、2016年度東大第1問や2010年度東大第1問を参照してください。
【本文の特徴と構成の読み取りかた】
説明口調、知らない情報、まわりくどい文体、先の見えない論理展開︙︙ センター試験の次年度から行われるはずだった共通テストを見越して、もしかしたら今年のセンターも、こういう読みにくい文章を構造的に読み解かせるかもしれません。読者を見くびっている割に論理的にしっかりしていない書き方なので、深い内容をまとめてはいてもあまり良い文章だとは言えませんが、そのツメの甘さを受験生に突いてもらうために三〇〇字自由記述が用意されているのだと思います。
今回の記事では、ロジカルシンキングや課題解決型学習を念頭に置いた〝あえて出題された読みにくい文章〟を、なるべくダメージが少ない状態で読み通すことを考えます。
そのうえで速読に必要なのは、
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【解説、マークアップ】2019年度お茶の水女子大学第1問「現代思想講義」
【解答指針】お茶の水女子大学 解答指針(公式)
①本文にexを通じた伏線関係があること、
②ディスり文脈による論点説明の停滞が、最終的にどこで決着しているのか見通しを立てること、
以上の2点です。今回は、この二つのどちらを欠いても正しい読解にはたどり着かないでしょう。正確さ精密さは必要ありません。この二つの手立てを、改めて意識してください。
①伏線関係の読み取り
リファレンス(引用)という意味で、レトリックの〈r〉ではなくて〝R〟の記号を持ち出して説明した授業回が以前ありましたが皆さん覚えていますでしょうか。この本文はデカルトの学説に即して解説されていますので、それに気が付いてしまえば大きなex(〝R〟引用元)の初めと終わりに見られる命題=本文最初の形式段落と結びの2、3段落とを同じ話題についての主張命題として把握ができて、それで解決です。
ただ、引用される学説はデカルトだけではないのです。クザーヌスはルネサンス期の枢機卿であり神学者で、注にはドイツの哲学者とあるけれども思想史的には過渡期の宗教者であり、何かを確立した人物として「現代社会」などの科目でも取り扱われることはまずないでしょう。経験論哲学として有名なヒュームにしても同様で、一次資料として取り沙汰されるわりには日本語による解説がきちんとあるわけでもないし、また受験レベルの参考書の中で彼の思想をなにかの完成形として詳しくテーマ学習することは困難です。受験レベルの倫理政経の水準を超えた学術用語が出現していますし、なにより皆さん自身が、東大や京大、阪大の過去問としてこんなに思想史に深入りした文章を見たことがないはずです。
種明かしをすれば、選択科目でしかない倫理政経の水準で現代文の文章を扱うことは指導要領の範囲外ですから、そういう事前知識を前提とする出題は国立大学では出題してはいけないのです。専攻に入ってからはそれこそ必死で学習しなければどうしようもありませんが、ここでは〝国語〟の一領域「現代文」として本文にある内容を読めばギリギリ解けるようになっています。
(それから細かいことを言えば、この文章にはexを引き合いに出すたびに結構な大きさの話の飛躍・論理的にあやしい部分が含まれています。現代の視点で妥当な考え方をコンパクトにまとめたテーマ学習関連の副教材を読んだところで、この文章と同じ論旨と同じ結論になることはおよそ考えられません。理屈っぽく論点や経緯を訊いてくる設問のスタイルからしても、試験当日に出会った初見の文章として文章自体をきちんと読解するしかないのです。)
途中に別の思想家・哲学者の引用exが入ってくるという点からすると、ちゃんとexのグルーピングをすることで、本文冒頭と結びに同種のex(デカルトについての引用)があることに早く気がつくべきだという言いかたをしても良いのかもしれません。大きくて長いデカルトの引用として見立てることができないのであれば、最後にデカルトの話題に戻る、冒頭の話題主張に戻ってくるという伏線回収の流れとしてつかむほうが分かりやすい人も多いと思います。途中が多少難しくても、チート技を必要な技術の一つとして研ぎ澄まして練習しておけば、この文章の構成は割と簡単に解くことができます。
こうした大局を見た読解=途中の各論を保留できる理性的な読解のためには、まずは〝これまでの技術の修練〟を意識することが重要でしょう。高3になってからのこのブログの中では読解の際に複数の技術を組み合わせる順序、手順について、ある程度わかりやすく提唱しましたが、読んでない人は確認してもらえるといいと思います(7月のお便りコーナーと、11月あたりの随筆とその後の論説文の解説記事)。
②ディスり文脈の終着点の把握
オンライン講座としては2013年度東大第1問『ランボーの詩の翻訳について』の記事、授業の内容としては『高校現代文1』における『モンテーニュ再読』の板書内容がもっとも詳しいのでぜひとも参照してもらいたいと思いますが、この文章では、筆者の説明が中盤でかなり渋滞し、ディスり構文が乱発されてます。ディスり文脈の終着点の把握をして、結局訴えたいことは何なのかを先取りすることが絶対に必要です。
もちろん、すべてのディスり文脈が同じものを目指してディスっているわけではありませんが、〝最初の方のディスりはどこでどう解決したのか〟もしくは〝最後の方のディスりはどこから始まっているのか〟のいずれかを読み取れば、どのみち問題はすぐに解決します。
こうした点をふまえて、すごくざっくりと本文の主張の部分を指摘するとすれば、19段落「しかし」〜21段落「むしろ」以降へと続く、〈rファンタジーの破壊者=〝世界と自分の未分化〟の破壊者〉についての最終のディスり文脈のところになりますから、これをex1でありex8である哲学者デカルトの話題と関連付ければいいということになります。
そしてこの最終のディスり文脈をひらたく説明すれば、自我というのは他者の行動する姿を自分自身に重ね合わせることで、自分のなかにもきっとあると推定される「行動の原因を司るもの」ということになり、〝したがって(最終26段落)〟〝デカルトの考えてきた自我〈わたし〉〟というのは、言語を通して他者の存在、社会の存在を認識したあとの自己認識でなければおかしいはずだ、というのが、この筆者の最終の主張ということになります。
―――あれ? 話がex1の前に戻った!?
そうなんです。この文章、ちょっとオカシイのですよ。
【非論理的な文章をそれなりに読み解く方法】
速読のスキルに則って雑に読み取っただけなのに筆者に文句つけてしまって、ちょっと申し訳ないところもありますけれども、デカルトの考えをきちんと分析もしないうちに言いがかり(ディスり構文)を連発していますから、たとえデカルトの退路を8割くらい絶つことに成功していたとしても、デカルトの論理のためにきちんと展開された文章ではないことだけははっきりしています。
まるで、言い分も聞いてくれぬままに一方的に言いがかりをつけられて、相手からドヤ顔で〝お前を完全論破してやったぞ〟と言われた感じの文章です。現に、「言語を用いないと他者を自分に投影できないのか」とか、「『大人でもファンタジーに生きる人が一部いる』と筆者が認めているけどそれならデカルトにだって逃げ場があるじゃないか」とか、残念ですがだいぶ突っ込まれてしまう部分がのこっています。
先に示したように倫理政経や現代社会が選択科目として明確に専門化した現在、今さら現代思想や哲学の教科書が知識問題として出題されることはありません。ただ、このお茶大の問題のように、論理的説明の不備を受験生に考えてもらうような出題は、十分あり得るのです。これを受験生の1月という、論理力の高まった受験直前の大事な時期に時間かけて記事にしているのは、そういうことです。鍛えた思考力で、ぐらつくことなく冷静に論理の不備を指摘してもらいたいと思います。
さぁ、論理的にオカシイ文章でも一応の結論はあるし入試問題なのですから、設問全体に解答ができるように、本文の主旨を筆者の意図に即して読まなければいけません。
そこで、論理の飛躍を含めて本文の流れを網羅する〝exと〈r〉によるストーリーテリング〟の方法を実践してください。
高2までの授業では扱わなかった文章のテーマ理解の方法なのですが、〝登場するexと〈r〉をぜんぶ使って本文のストーリーを再現してみる〟というものです。特に、傍線部にある〈rレトリック〉かもしれないフレーズに関しては、設問を解く前に、積極的に本文の組み立ての中に当てはめてみましょう。
これは東大第4問を受ける文系組はもちろんのこと、文系理系問わず京都を受験する人たちにとっても文学的な文章に対するかなり効果的というか革新的な解き方であり、それが設問と設問の間の共通解答要素を洗い出すうえで歴然とした差を生み出すのですが、考案したのはつい最近でした。十月、十一月の東大第4問の解説記事を参照してもらえると、1、3、4組のみんなのお役にも立てるのではないかと思います。
本文の結論にあたる最終のディスり文脈に、最初のディスり構文から扱われている内容を串刺しにしていきます。今回はディスり構文が4・5、11・12、15・16段落そして19〜22段落と、大きく5箇所で展開されていると思いますが、デカルトを引用した冒頭(ex1)に関わる4・5段落の文脈と、同じくデカルト説を尊重した19〜22段落の文脈を一貫するものとしてとらえ、本文の主旨を推定する作業を優先してください。
今回はいちおう問題提起が大きく3段階くらいで意味段落的なまとまりを形成していますけれども、19〜22段落の情報量の多さが確認できれば、読めない人はいなくなるでしょう。
そもそも正攻法の論理展開ではありえないディスり構文に深入りするよりは、論理の飛躍を抱え込んで文章を成立させる〈レトリック〉の本文中でのはたらきを見るべきです。また、デカルト以外に引用されている思想家たちのexが、本文のストーリーにどう関わるかも確認してください。これらは論理的であろうとなかろうと、本文の主張を編むためには必要なキーフレーズなのです。
すると、〈r 他人は暴力、恐怖 〉〈r 砕け散った〈わたし〉という鏡 〉〈r ファンタジーの破壊者 〉あたりのオーバーな比喩表現が、デカルト以外の引用exを従えて、先ほどの19〜22段落あたりの最終のディスリ文脈を導いているのが見えてきますので、25、26段落の無理やり感のある筆者の理屈を組み合わせれば、とりあえず本文の後半の論旨は成立します。
ちなみに本文前半の方では〝〈わたし〉〟という言葉が「ともに暮らしつつ、自我を持っている家族や他人」の意味だったり「言語化の洗礼を受けファンタジーを破壊された自分」の意味だったり「ただの本人」を指す言葉だったりするので、その場の話題の確認をしなければ筆者の言葉づかいの緩さに引きずられて皆さんのほうが記述で失敗してしまうので気をつけましょう。このへんはむしろ、センター試験の難しい年度に出題されるようなややこしさであるように思います。
他者の行動を自分自身にミラーリングする(同じ生き物として重ね合わせ、真似る)ことで、自分のなかにもきっとあると推定される「行動の原因を司るもの」、それが本文後半で筆者が述べる〈わたし(自我)〉の正体です。
「『わたし』という語で、人間はみな対等に『振る舞い』のそれぞれを(『原因』をもつ)『行動』として捉えられるようになる」「そこからはじめて、〈わたし〉が『社会に生まれてきた』とか意識できるようになるのである」(24段落=最終問6の三〇〇字作文の内容)
私はこの入試問題の原文を確認していませんけれども、ここの論拠は筆者がディスり文脈でなんとか持ってきた文章の内容の言い換えにすぎず、この論拠を証明する・裏付けることはできていません。19段落20段落で「意志」というものの曖昧さをけなしたところで、「自我が仮想されたアイデンティティであること」の証明ができたわけでも、まして「他人の自我が他人を主題に言葉を語る前提となってくれること」の証明ができたわけでもないのです。22段落「つまり、こういうことだ︙」と展開される自説の主張は、26段落「したがって、デカルトの『ex8』というときの『わたし』は︙」という結論に至るまで、少なくとも引用された範囲の本文の説明のかぎりでは、デカルトの目指した考えのプロセスを尊重していないことはもちろんのこと、根拠が明確でないままに披露されている内容であると断言してしまって差し支えないと思います。
このように、ディスりの多い文脈というのは、自説の補強になると思い込んで必要かどうかもわからない他説を批判し、余計な選択肢を読者に見せつけては奪い去るような不毛な文章であると思います。漏れのない背理法による論証を目指さないかぎりは、論理的な文章がほんらい持つ合理性というものをこうした貶(けな)すだけの文脈に見つけることはできません。
たとえば皆さんのまわりのすべてのヒト型の個体が人工知能を持ったヒューマノイドたちだったとしたら、皆さんはいつか来る自分の死をバッテリー切れと思ったり、自分の体を開けたら彼らと同じようにでっかいCPUが入っていたり、処理回路がズラリと埋め込まれていて、自分の行動の決定も同じ部品が司っていると推測するでしょうか。そういう、他者と同型機とおもわれる自分のなかに、自分の行動を決定づけている処理回路の部分が〈わたし=〝自我〟〉というかたちで仮想されている、本文はそういう推測がはたらくと述べています。70年前まで肌の色が異なれば生物的にも考え方が異なると考えて戦争していた人類に、そこまで例外なき自我の「一般化」ができるでしょうか?
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・・・で、この文章の場合そこから話は無批判に進んでしまって、それぞれの人間個体は、意思疎通と思考のために習得した「言語」というものを共通要素として、社会全体の他者たちと自分の存在とを同じようなものとして認めている―――そういう結びになっているのです。正直なところ、私のこの記事(7923字)よりも少ない文字数の中で、現代の思想に連なる哲学者を論破したり複数の哲学者の関わりを正しく関連付けて説明するなんて無理なのです。
センター直前の記事としてはこれが最終となります。今回は一見知識量を問うような現代文の論説に対して、大意をすかさず把握するための方法と、〈r〉を介して文章中の飛躍を埋め、本文の構成要素の関係性を設問に表すための方法を確認しました。センターの問5や問6における描写や論理関係の解答にも使えるので、できたら確認しておいてください。
次回の記事は東大120字や京都の4〜5行記述にも関係するであろう、書くべき内容の射程範囲を、このお茶の水女子大学が開示している模範的な解答方針の文面から読み解いていきたいと思います。
体調気をつけて、センターをいい得点で突破してください。遠くからではありますが、応援しています。