お茶大の解決編(問5、問6)です。
この文章、〈スマホ持ってる人に公衆電話を使わせまいと意地悪してドヤ顔しているような滑稽さ〉があります。居心地が悪いのは読者が読めていないからではないくて、筆者の論の建て付けが悪いから。四の五の言ってる筆者の結論掴んでひっくり返してやらないと、読んでいるこっちの時間と精神がやられてしまうのです。
これだけ筆者がやりたいことと筆者自身の論の組み立てが食い違っている文章も珍しいですが、そのもどかしさを読むのが批判的思考、ロジカルシンキングで、近年の傾向なわけです。
この文章は、筆者の論の立て方自体に検証の目を向けている大学の先生が作問したものだと思います。aさんもその辺の違和感を感じて相談してくれたんじゃないかなと思います。
この記事は正月にちゃっちゃと終えるつもりだったのですが、特に最後に意見を述べさせる大学の入試問題の場合、突っ込みどころ・異論の余地が多くて、思いのほか時間がかかってしまいました。
正直、素直に論文を読み解く素質を求めている東大や京大の出題傾向の方が、〝見えた!〟の状況に入ったあとはハズしている感覚もなく黙々と解答を書くだけなので楽なんですよね。
この実践問題で、「大学の先生は日ごろ学部生を相手しているから、もっと難しい文章を知っていてやヤヤコシイ勘所がわかったうえで、手加減して入試を作っているんだ」ということを思い知ったうえで、本番を迎えましょう。
【直前対策演習】
2019年度お茶の水女子大学第1問
船木亨『現代思想講義―――人間の終焉と近未来社会のゆくえ』④【解答編】:
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【解説、マークアップ】2019年度お茶の水女子大学第1問「現代思想講義」
【解答指針】お茶の水女子大学 解答指針(公式)
公開されている昨年度の入試問題なので、2月中は鍵無しの公開でも大丈夫だろうと思ってオープンにしています。京大でも東大でも、課題の意識を持って取り組みさえすれば、このお茶大の問題は美味しいところは多いはずです。
「コロラリー」という言葉があります。論理的帰結が指し示すところを指す言葉なのですが、これがその独創性によって、新たなものの見方を人々に促し大きく視野を広げることもあれば、これが実態に即していなくて、本来的なものの見方に即していない考え方をただ訴えてしまっている場合もあります。野心的だけどまったくの空振りだったり、どこかからかボタンを掛け違えて途中からまったく違う結論になっているなどといった論理展開の問題点自体について、ゴールを確認しながら論拠を一つ一つ検証させる問題を出題する上位の大学が、そろそろ出てきてもおかしくはない。それがアクティブラーニングが大学教育の前提となった現在における、あらたな入試改革の方向性かと思います。
そもそも2019年度東大第1問「科学と非科学のはざまで」は、本文前半が後半と論理的には到底同じとはみなせないような破綻を抱えた文章が出題されています。その前年2018年度は基本的なロジカルシンキングではあったものの、出典元の文章の後半の章で述べていることと論理的には似ているようでいて、「コロラリー」の方向性が逆になっていました。2017年度は文明と自然の定義が途中から崩壊するという文章だし、2016年の内田樹も「集団的知性のためには学者個々人は知性がなくても良い」という破天荒な文章でした。テーマ学習で身につけた色眼鏡でわかった風で本文の結論を予測するような受験生、学部生をボコボコにしてしまうような「論理の組み立ての粗さ」についての慎重な分析力が問われている可能性が、じゅうぶんに考えられるのです。
もちろんそんなハイレベルの入試問題が出題できるのは、国語においては要求度が率先して高い京都大学、つぎに慎重ながらも政府の無茶振りや国際情勢に答えざるを得ない東京大学、そして教官自体が生き残りに必死な大阪大学ぐらいだと思いますが、新共通テストのあとにひかえた新学習指導要領に備えて、そうした理屈の検証までも何らかのかたちで出題するようになる変化があっても不思議ではありません。
技術的に君たちが負けることはもうないのですけど、この文章にどういう難しさがあると私がいま述べているのか、ちゃんと読み取ってほしいと思います。オンライン講座のフィナーレに近いこのお茶大の問題、意外とラスボスなのかもしれませんよ。
【設問ごとの公開採点(問5、6)】
[問5]︙傍線部⑤(最後のディスり文脈)で、〝完結した理性的な自我〟を貶す代わりに主張される「自我」=筆者の述べてきた〈わたし〉全てのまとめ ※3
大学からの要望:
デカルトの主張する自我と筆者の主張する自我のありかたの違いを理解し、自我は社会において言葉を介した他者との出会いから生じるという筆者の考えについて、本文の一部を抜き出すのではなく、自分の言葉で「整理してまとめ」ていること。
某O社解答:
「自我」は、初めから〈わたし〉のなかに存在するわけではなく、自分の言動に対する△他人の反応を見て仮想される人格的同一性であり、言葉を話し、思考が可能になって、社会との関わりをもってから見出されるもの。
aさん解答:
自我は、○他人の自分に対する言動を○自分の経験に基づいて推察し、その他人の○身体に見出された自我が○自分にもあるとして▲世界と自分の未分化を破壊する、○仮想された人格的同一性 & (✗不足:〈自我・わたし〉が本人に与える・保証するものの内容説明)。
大学側が要求する水準がいかに高いか、この設問における大学の解答指針をきちんと読んで確かめておいてください。デカルトが前提としたような自我(最終段落〝完結した理性的な自我〟〝事物のように性質が論じられるもの〟)を、筆者は本文でどのように追い詰め、否定していったか―――つまり、筆者によるデカルト批判=本文中によるディスりの文脈が、どのように継承され発展し決着したかについて説明が必要なのです。
ごく簡単に言っても、書くべきことは以下のとおり少なくとも3点あります。そしてそれを関連付けねばならないので、正直なところ超絶難問と言ってもいいでしょう。
①最初のディスり文脈(4段落)のまとめ(7段落)
:一人称の指示語「わたし」は、実質が話者に依存・状況に依存する曖昧な語である
②幼児の精神世界=物語世界に守られている〈r ファンタジー〉を否定するプロセスのまとめ
:現実世界に共生する他者の存在が、固有名詞としての「わたし(世界の唯一の中心)」を不可逆に破壊する(1112段落―1517段落)
③その存在を経験(=獲得)することができそうな「自我」存在を否定するプロセス
:「自我」の本質として存在してくれそうな「意志」は行動を律するために自らの中に存在してはくれない(19段落)し、他人の「意志」は行動の結果から誠実さを逆算するさいの概念に過ぎない(20段落)
⇒存在しない・経験できないところにしか〈自我・わたし〉はない。それは「他者の存在、他者の運動の前提・原因」という仮想された概念に過ぎない(2224段落)
①も②も③もディスり構文ではあるのですが、単純に同一次元で同じことを言っているというわけではないので注意が必要です。今回不気味なのは、一般的にはあぁでもない、こうでもないというふうに既成概念を否定するからには、
具体的には、ひとは他人の身体の存在から仮想した「他人の自我(他人の人格的同一性)」から、間接的におのれの自我を仮想する(21段落)ことで、社会の中で生きている人間はみな(私にとっての〈わたし〉も、他人の身体に宿る〈わたし〉も)それぞれ、その振る舞いに「原因、情動の始原」をもつ「行動」ができるようになる:社会に生まれ、社会に出て、他人を主題に言葉を語り、いっさいの人間関係や政治的問題をはじめる「前提」ができるようになる(23、24段落)というこの〝仮想された概念〟を、デカルトに対する筆者の最終解答として受け止めなければいけません。最終26段落にあるように、筆者はヒュームに倣(なら)って「〈自我・わたし〉というのは事物ではないし性質を伴ってもいない」ものであるとし、それは「言葉をしゃべり、思考できるようになっている(25)段落」ことによって仮想されたものの捉え方(=概念)に過ぎないはずだ、と筆者としてはそれでケリをつけたいのです。
しかしながら、①や②(「(自分の名前)ちゃん」だけが中心だった世界は幼児期に破壊されること)と、右に述べた③(「意志」ではない〝存在しない〟ところにこそ自我概念が仮想されること)とをつなぐ明確な理屈のつながりは、残念ながら存在しません。幼児の言語獲得と社会性獲得のプロセスが同時だとみなしているから、経験論哲学を方便としてなんとなく連続性をもたせているくらいの話の展開です。〝完結した理性的な自我〟
業者の人は、文章の結論の部分を読んで解答を作ったものの、
[問6]
大学からの要望:
本問は課題作文に当たる。文章・構成面では、字数が8割以上あり、途中書きかけでないこと、誤字脱字がなく、全体の構成がきちんと構築されていることを求めている。内容面では、本文の内容を踏まえていること、自分自身の経験が述べられていること、その経験が指示されている内容にふさわしいこと、論旨が一貫し、結論まできちんと書かれていることを求めている。
某O社解答:
自分の幼児期を振り返ってみると、たしかに初めはさまざまな事物や生物たちと何の違和感もなく会話できるファンタジーの世界を生きていたように思う。森の木々や動物たち、また、鳥や昆虫たちとも気持ちは通じ合えた。一人でいれば自分の空想を邪魔されることはなかった。しかし、あるときそんなファンタジーはあっけなく壊されてしまう。現実は思い通りにならないものだと教えたがる大人たちはもちろん、子供たちの中にも、たとえばサンタクロースはいないことを「わたし」は知っていると言い出す者が現われる。このとき、〈わたし〉を名乗る者が何人もいて、いくつもの〈わたし〉がぶつかり合う「社会」に自分がいるのだと気づいたのであった。(三〇〇字)
aさん解答:
幼い頃から家族で通っていたレストランで、今までは客として訪れアルバイトとして働き始めたことで、客側から店員側になり自分ではない客と出会い、店員として振る舞ううちに、消費社会を構成する一員となったと感じた。
今まで当たり前に社会の一部として捉えていた労働者たちと同じ立場に立つことで自分自身は彼らと同じように社会に属し自分で稼いだお金を使って物を買い食べてゆくことで社会を回しているのだと身をもって知った。
[問6]a課 b浸 c万能 d地獄 e源泉(原泉)
この大学の出題の場合、文章後半にある波線部について受験生の身近な話題に具体化させたうえで論じさせる三〇〇字記述が、学習指導要領を超えない形式でみんなに書くチャンスを与えるという意味で、それなりのウェイトを占めることになると思います。
で、この設問は、デカルト抜きに滔々と結論まで述べあげられている〝他者の存在から〈わたし〉という存在を知り、言葉でしかそれを自分自身のことに置き換えられない、思考できない〟という筆者の主張をいったん理解して具体化した上で、自分なりの考えを述べることになると思います。自由に記述できるのは、言ってみれば最終26段落までの筆者の論理展開について卑近な例で反論しろ、内容や分量は問わないという意味で自由なだけのことです。
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