最終の問題演習として、2015年度と、2017年度を選んでお話をしたいと思います。
2017年度は言及するだけになるかもしれませんが、皆さんが超上位生徒に得点で勝つための〝仕上げ〟です。最終局面の論理力で、何が、どこが入試問題を読み解くさいのネックになるのか、各自で調整してください。
【プチ解説】2015年度第一問 池上哲司『傍らにあることー老いと介護の倫理学』:
・本文最終行にある定義を伏線〈r〉にしたがって前半に反映させる
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【解説、マークアップ】2010年度東京大学第1問「ポスト・プライバシー」
問題提起に引きずられてはいけない
意味段落の分け方として「問題提起」というものがあります。
かつてはこれに即して解かせていたので、間にあわせの私のPDFには結構多くの問題提起のマーカーが付いていると思います。
これは、ディスり構文の方に上位互換性がある(ディスり構文対策が〝小を兼ねる〟)ので現在では制限時間内の速読法としては推奨していませんけど、もしこちらのほうがわかりやすいという人がいたら、ウラ技を一つだけ頭の片隅に置いておいてください。
:問題提起に直接の答えなどない(ディスり文脈の途中なので最終の結論になりえない)が、直後にあるキーワードが伏線になってくれるので、以降の文脈(別の意味段落)から探し出す
あくまでこれは間接的な解法にしかなりませんけど、ディスり構文自体が不完全な叙述であるかぎりは、急場で使えれば命拾いするかもしれないウラ技の一つではあるでしょう。
〝ディスり文脈の解消〟を目指すことの優位性についてざっと解説すると、「問題提起」というのは本人の決して上手でない説明力をもって取り組む課題ごとに話を区切るマーカーに過ぎないわけです。だから一見すると談話(論説)分析の目印として使えそうにも思われますが、その問いかけが簡単には解決していかない(立論の途中で話が完結するわけがない)がゆえに、筆者と一緒に「○○でもない☓☓でもない、どうしよう︙」という解決しないディスり構文の沼地に振り回され、引きずり込まれるだけの結果になってしまいます。
しかしながら、入学試験を作る大学の先生としては、解決しない文章は出題なんかできないわけですから、もっと達観した割り切りの境地で、これまでの通り「解決しないディスり構文こそが最終的な結論を発動させるトリガーになる」というチート技を前提にして解くことをお勧めしています。
(予備校の実戦模試では、解決しない文章をその難解さゆえに、よくも分からず有り難がって出題してしまっていることもありますが、大学の先生は日頃から院生たちともっと高いレベルで文章を扱って論じていますので、予備校や僕ら私立高の先生みたいなショボい間違いはしません。)
ディスり構文を当てにする解法が難しいのは、前回のお茶の水女子大学の問題みたいに〝筆者自身のおごりや勘違い〟が解答の焦点になるときに、ディスり文脈の伏線を回収する受験生側が筆者の論証の薄っぺらさ、検証の不十分さに〝ほんとにこんな解決でいいのか〟と逆に心配になってしまうときではないかと思います。学校によっては、そこが問われることもあるかもしれません。そうですね、慶應義塾大学の文系学部で〝小論文〟の科目を併願する人なんかは、この辺を気をつけてもらえたらいいのかなと思います(併願する人は科目数の少なさと傾向対策の不十分さから滑り止めと思っていて大学に嫌われることも多いので、二次入試直前に揺さぶられないように気をつけてくださいね)。
ディスりはどこで決着しているか
=整序が必要な論拠が後半に引きずられてはいないか
「空振りの多い筆者の問題提起に付き合うことは止めよう」ここまで分かってもらえたうえで、この2015年度の文章の恐ろしさについて端的に述べましょう。
それは、後出しの論拠が、本当に末文まで後回しになって出てくるということです。
お茶の水女子大学の過去問のややこしさについて記事を読んでもらえてない人も、東京大学の第一問で、しかも〝論拠の整序〟が要求された2016年度(内田樹「反知性主義者たちの肖像」)の前年に、このような論理展開の文章が出題されているという事実を、いちど冷静になって考えておいてほしいと思います。
一言で言えば〝ロジカルシンキング〟批評的つまり学術的な論文の読み取りにおいて、こうしたトリッキーな文章を読み解くことが明確なお題として、大学の先生達の問題意識にあるということではないかと思います。
前回のお茶女の問題では、120字(約4行)の記述回答に対して「指定された解答方針でゴールを見据えながらひたすら要素を組み替えて打ち返す」という猛烈なスパルタ訓練をあつかったわけですが、この2015年度においては、本文の結び自体が後出し論拠のパズルになっており、賢いかどうかはこの一箇所かぎりの一回勝負になっています。
この年度の作問の恐ろしさの真骨頂は、
ああでもこうでもないヤヤコシイ文体の残り3分の2の部分で、「その人間の〝生前〟と〝死後〟」というようやく意味段落として分けられそうな区分が出てくるんだけど、実はそれが「筆者の設定課題のなかでは場合分け(条件分岐)になっていない」という恐ろしいトラップになっている、というところです。
最後の傍線部「 」が、筆者の設定課題の中における「その人の自分らしさ」の最も厳密な定義(これまでの授業で扱った分類では、論拠①でしたね)にあたっており、傍線部の中にはディスりについて扱ったレトリック〈r虚に向かう指向性〉が、〝さっきの段落の〈r〉もおんなじ、あれ本当は分岐してんとちゃうぞ〟とはっきりと主張しているではありませんか︙︙!
正直言って、これは一般人が解くにはあまりにも難易度が高い問題ではないかと思います。予備校の水準ではこの〝ぜんぶひっくり返して整序しなおすべき論拠の存在〟に全く太刀打ちができていません。(沖縄の予備校の塾長さんがブログで同じように解説していますので、見比べてもらえると分かりやすいと思います)
だから私にも皆さんにも残された時間が有限で貴重になっているいま、細かいところまで追い込むことはできなくても、せめて〝東大の第一問ってときどき狂ってるな〟という感覚だけは持っておいてほしいと思います。何度も言うように、雑に捉えていては負けてしまう、容赦ないハイレベルの選抜試験なのです。
【作業】論拠の整序
ヤバい年度を扱っているわけですが、勘所はここだけです。受験生の記述答案の束のなかで上位3割に入るための気付きはすでに突破しました。
単純に言えば、〝生きてるうちから「死後に自分の足跡だけで誰かの心を動かせる」ような自らの働きをイメージせよ〟ということです。最終段落での主要な話題は「その人の死後」のことなのですが、傍線部 ははっきりと「人間のはたらきが目指す方向性とはなにか(=設定課題そのもの)」を述べており、それが〈r虚への指向性〉という象徴表現によって、明らかに本文中盤までの内容(=生きている人間にとっての自分らしさ)につながるように述べられています。
当然、それが問1(傍線部ア「 」)と連動するわけですし、問 や問 にも関連するのが見えてきますね? このへんが言及できなければ配点のうえでは得点率50%がいいところだと思いますから、君たちが無双できるということの証明はこれだけで十分ではないかと思います。
賢い受験者層を見極めるのにためらいがなかった―――この年度の骨頂はまさにここにあります。たとえば理Ⅲ狙いの人がここに気づいていないとしたら、どんなに真面目でも惨敗してしまったであろうなかなか酷な出題、それが2015年度であったということもできるでしょう。確実に受かるための努力という意味では、現代文で差がつかないなんて言っているあいだはどこまでも凡人です。
実はかく言う私自身も、この過去問ではいま述べている〝後出しの論拠〟に気づかずに、4年前の学年ではざっと説明して送り出してしまったものなのです。アクティブ・ラーニングの対応対策まで学校で行っているところは当時は少なかったので競争力は持たせられたかもしれませんが、課題解決学習が中学のカリキュラムで話題になった皆さんの代の水準としてみると、それでは不十分であると言わざるを得ません。
死んだあとも足跡が残るなんて、それだけでなんだかステキじゃないですか? だけど、そんな安い感傷に酔ってる自分大好き人間なんか、死後に何一つ残せないままくたばってしまうのですよ。これまでにも扱ったように、貧しきニッポンの研究機関として大学の先生が抱え込んだ問題意識は深くて、つらく、重たいものなのです。
以上、【プチ解説】として字数を制限して、上位三分の一に食い込むポイントだけを説明しました。細かい解説が欲しい人もいるかもしれませんけど、基本の訓練を修得してきたのであれば、入試直前で自分の思考が誰かに丸め込まれてしまうこと自体が問題となってくると私は思います。
ここから先は自分を信じて、自分を研ぎ澄ます方向で、入試当日に向けて自分のアタマを上手に回転させることに専念してください。
次回は2017年度のプチ解説をしたいと思います。
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