皆さん、お疲れさまでした。毎年この2月25日26日はお祭りのつもりで、今年も実況中継に向けて準備していたつもりでしたが、東京大学の国語に関して言えば、〝血祭り〟に近いものでした。
第1問論説、第4問随筆ともにPBL型の発展的な出題、なおかつディスり構文に加えて、随筆では「はぐらかしの構文(?)」が連発するなかで〈r〉が多重化した文章でした。かんたんな解説をしたいと思います。
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難易度について
まず、現代文に関して言えば、今回の場合無策で臨んだ最頻値の受験者層はほとんど何も読めておらず、書いたところで0点の勢い(百二十字記述でお情けをもらうのが関の山)なので、ここまで関わった西大和の受験生が何か書けたのだとしたら、そのままそれが平均層に対するアドバンテージになっていると思います。
でも正直言って、大学側がここまで受験生をいたぶる理由が分かりません。中学段階からロジカルシンキングが流行った世代の受験ですから、一段階上の〝批評的な読み〟のスキルが要求されるのは当然であるにしても、あきらかにやりすぎな難易度です。たとえば新御三家クラスの受験指導がきちんとなされたとして、果たしてこれに対応できるようになるのかどうか︙︙大学の先生自身の心が荒んでいるかのような無茶ぶりであると感じます。
二等国の国立大学が、自国語による言語文化を投げ捨てておきながら勝手な期待をかけ、育たない言語文化のなかでさらに転落しようとしているその瞬間に、私たちは立ち会っているのだろうな、という気持ちを新たにしています。
出典について
第一問の小坂井敏晶は高1現代文のオリジナル冊子で中央大学・埼玉大学過去問2004年度をやったきりでしたね。教科書会社によっては、現代文Bの教科書に最近まで採択されてもいたのですが、無駄に込み入った文体が嫌われたのか、現行の版の教科書からは消えていました。また第四問の谷川俊太郎は、一九九六年度第5問のピアノとわたしの骨についての随筆(三善晃)で引用されていたので、それぞれ少なからず扱っていた教材ではありましたが、ズバリ的中という感じにはできなくて、申し訳なかったと思います。
ただ、現任校で早稲田の博士課程まで進んだ若く有能な先生が〝なんか、氷河期世代がとにかく悪意で作った問題って感じですね〟とおっしゃるので、「あぁ、そうだね︙いいこと何もなかったもんね︙」と思いながらも、この辺の文章のチョイスは確かにポスドクから助教そして准教授へと血で血を洗う真っ最中である就職氷河期世代の大学人が好みそうなものであるなぁ、と実感を持って思います。
地獄への道は善意で出来てるんやで︙ってのは覚えていますでしょうか?私は本日26日にとても久しぶりに井の頭線の渋谷・駒場東大前駅の改札に立ち、あの人に出会ったあの日から、善意で出来ていたはずの道が私をどこへ連れてきたのかという思いにとらわれて涙で前が見えなくなりました。人は時代と環境で変わるものなのです。そして確かに、いい時代ではありませんでした。
基本的な読解戦略(第一問)
閑話休題、講師業の学年末考査前なのでこまかい解説はできませんゆえ、かんたんな答え合わせのために本当に少しだけコメントを。(今回の本試験の問題を含め、青木先生にお任せしてしまった直近数年分について記事を書くのは来年度の夏休みまでかけて着実に、と思っていますので、浪人してしまう人は3月に案内しますので、ブログ継続の手続きをしてください。)
今回の文章の恐ろしさは、「我が国=日本のケースが、論理展開のうえでどこに位置づけられるのかがはっきりしない」というところにあります。本文の展開の上では「いろいろあるけど、近代民主主義社会でも多くの場合※『社会の不公平』は存在するから、社会は激しく流動的に変わっていくからだいたい大丈夫※」として、あくまで前向きに展開するのだけれど、
※ただし、社会が公正で、遺伝や家庭環境を本人の責任の範疇と見なす場合を除く
という例外が付いていて、まさにその例外の項目に、我が国日本がすっぽり含まれてしまうというのが恐ろしいところ。だから問1から問4百二十字記述まで、基本的には「欧米諸国ベース」の本論の展開に即して論述しなければならないのです。
真っ先にやるべき読解戦略は、
冒頭と本文結びのディスり文脈に伏線としての連関があるかどうかを確かめることでした。そこにex(日本という特殊ケース)があって、あたかも〝(虚構に満ちた)理想〟としての社会的公正さを持っているかのような扱いになっているという意味的な連関の存在を確認します。
次に解決すべき設定課題を見つけます。今回exの数が膨大なものとなりますが、2段落「機会均等のパラドクスを示すため」・12段落「近代に内在する瑕疵を理解するため」というのがわりと早い段階で目につくことでしょう。exのグルーピングと並行してもらっても構いませんが、設定課題は筆者が言及しているものであるかぎりブレはしないので、さっさと印をつけると良いです。
3番めにたくさんのexをグループ分けします。ただ今回は、ex1(日本の〝一億総中流〟状態)と、ex2(米国のような人種問題)およびex3(英国のような維持される階級区分)とを、問1につなげるべくグループ分けしていけば、それが
(ⅰ)社会に明確な不平等が存在する場合 例ex4(身分ごとに違う学校)、欧・米
(ⅱ)社会に不平等が顕著でない場合 例ex5(一律の学校制度)、日本社会
という二つの条件分岐になることがわかりますので、条件分岐自体に関わるexのグルーピングさえしっかり出来ていれば、
設定課題〝近代社会の機会均等のパラドクスを暴く〟を明確に解くうえでは、
ex1(日本の〝一億総中流〟状態)にはex5(一律の学校制度)と同じように、
ex2・3(欧米諸国のような明確に不公平な社会問題)の場合とは真逆の心理が生じている:それは「自分に能力がないから」という内向きの批判である。
という、本文の解決課題に結びつき、かつ本文の条件分岐(ⅰ)(ⅱ)をすでに備えた、本文のストーリーテリングのあらましが見えてきます。
このように、自覚的に読み進めなければ解くことが困難なほどの、明確なPBL型の出題であるということができる問題に仕上がっています。
解説としては、当然次になすべき、本文全体の〈r〉を踏まえたストーリーテリングをやっていくべきなのですが、速報としてこのプチプチ解説をまとめるために、本稿では省略します。12段落の〈rもはや逃げ道はない〉と、4段落の〈r地獄への道は善意で敷き詰められている〉〈r近代の人間像が︙袋小路〉とを関連させることができていれば、当日50分間の死闘という意味ではたいへん健闘したということができるでしょう。そこまで行くだけで、今回は受験集団内の上位5分の1には入っています。
各設問について
2020年度東京大学問題t01-31p
河合塾二〇二〇解答速報
ここからは、K塾の解答に対する補注というかディスり解説です。S台も話にならなかったので今年度中のコメントはしません。これまでの読解戦略ぐらいはやってくれないと、もはや子どもを相手にしているようなので、こまかい公開採点は浪人したさいに、当ブログ上で見てください。
ここまで踏まえれば、K塾の問1のような「米国は勝敗が個人の才能と努力に帰されてしまう」なんてのは「日本ベースで」筆者の論を単純化してしまった典型的なドボン解答なのが分かると思います。問1は文章冒頭の表面的なまとめ問題なんかではなくて、文章の締めくくりである12段落にある近代のパラドクスの、西欧諸国サイドの現れ方について説明する問題なのです。米国には競争主義(社会自体の根本的な是非の問題)以前に、目の前の人種問題(社会の中の集団間不平等)に対して批判が向いて、社会の変革はいつまでも小さい方の問題の是正を目指して行われてしまってきたから(=「近代社会の自由競争原理自体を見直して社会主義国家に移行しよう」なんて大きな変革は、集団間不平等の改革に視点を奪われたまま、延々と棚上げされたままになってしまったから)ということを軸に解答することが求められています。
同時に、問4百二十字記述では「※ただし社会が公正で…あとは自己責任」というのは「近代社会の〈巧妙な罠〉〈落とし穴〉〈地獄への道〉〈逃げ道はない〉〈能力主義の詭弁〉」である、と筆者がぶちまけてしまっている箇所なのです。近代における集団間不平等が(実際には「嘘で塗り固めて誤魔化して」ですが)顕在化しない状態になっている日本だけが、この〈近代社会の機会均等のパラドクス〉の弊害をモロに蒙ってしまう(社会変革が集団間不平等を改善するアファーマティブアクションの恩恵すら享受しないまま、そもそも近代社会とは縁遠い存在であった日本社会が、西洋の近代社会がもつ虚構性や欺瞞をなんの不満すら表明することなく引き受けてしまっている)ということを書かなければならないのに、K塾ときたら何を自己責任論の紹介なんかくどくど書いてしまっているんだ、と思います。自己責任論は、西洋の近代の虚構性を引き受けた「一つの」結果にすぎません。なぜ欧米は平等をいつまでも目指し、なぜバカな日本社会は自己責任論に陥ったのかの2つを、問1と問4とで相補的に説明しなければならないのですが、予備校は揃いも揃って何もわかっていない。アホやと思います。
また、ストーリーテリングで確認しておくべき複数の〈r〉たちの関連については、問2ですでに必要になってきます。K塾は思い出したように問4百二十字に詰め込もうとしていますが、手遅れです。レトリックだらけで個々の文脈では語り尽くされずに来た設定課題〝近代の瑕疵:機会均等のパラドクスと〈大きな落とし穴〉〟は、〈rメリトクラシーの詭弁〉として12段落付近でようやく明確なその欺瞞や虚偽性を暴かれることになるのです。問2は「近代の支配における〝虚構性〟」を、問3はその支配が〈自然の摂理〉のように自らを偽る〝詭弁のプロセス〟を、それから問4では〝設定課題の説明〟のなかで、そうした詭弁が成り立つ理論的な理想状態「正義が実現した社会」の仮定が、そのままex1(日本というタテマエ平等社会)に適用されてしまっているということを、関連付けて述べる―――のが、標準的な解答の書き方ではないでしょうか。
K塾の答案は〈r〉の処理も適当で、今回は本当に見るべきところがありません。
問3は直前文脈もふくめて、「正義が実現された理想的な社会」では、さも〈自然の摂理〉かのように「支配・被支配の合意」が成されてしまうけど、それは〈個人という虚構〉が〈自己責任の根拠〉を担保する前提のごまかしなのだ。――そういうことを書かなければ関連箇所をつないだことにならないのだけれど、〝能力主義〟に関わる文脈が2段落から8段落まで続く広大なもの、という認識すら持っていないから、何一つ書けていない。
近代において、〈個人〉というのが神に代わる虚構であるという歴史的経緯と、薄弱ながらも認知科学が人間の意志も外来要素の沈澱にすぎないと示してくれることが、こうした自己責任論の反証となってくれるということ。それ自体は問4ではなく問2でまとめなければならないまさにその内容であるのにもかかわらず、その論拠の示し方も十分ではない。
これらのことは、複数の設問をセットで解くという発想がないことから始まる〝仕事・飯のタネとして嫌々文章を解く〟サラリーマンにありがちな態度であり、かりにも上位大学を目指す若者に接する仕事であるのであれば、せめてもう少しは、見苦しくならないような改善を求めたいところです。
かくいう私も、皆さんと違って学生の未来が目の前に続いているわけではありません。大学に進んだあの時の未来や希望はひどく長い時間を経てまったく別のものへと移り変わり、いまはただ、来年度の自分の仕事について、何かしらの具体性を持たせるように努力をするだけです。
TDJ学園や、中学女子部を開設したRNの後塵を拝していたかつてのNYGの新入生であった皆さんにとって、最難関の大学受験レベルにまで国語を高めていくことはなかなか困難なことでした。ブログの形式で皆さんと接するようになってさらに、論理的な文章の説明が困難になっていったのを残念に思います。
この春の段階で皆さんにどれだけアシストが出来たかについては、いくらか悔やむところもあります。ここからは私個人の課題になっていきますが、プレゼンや解説のスキルや環境を向上させて、ちゃんとオンラインでこうした難易度の高い文章を説明できるようになりたいと思います。
次回の記事は2、3日中に、文系第4問 谷川俊太郎『詩を考える―言葉が生まれる現場』のプチプチ解説をお届けいたします。
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