2009年度第1問 原 研哉『白』③
放棄された結論――勘所は中盤にあり

【ロジカルシンキングのお題としての「批評」】
 ロジカルシンキングの批評対象としての掌編、それが『白』の立ち位置かと思います。一言で言えば、この文章は体よく結論をとりまとめただけの悪文で、筆者によってまとめきれなかった中盤の論理:世阿弥の芸術観〝日々の初心〟が置き去りになっています。
一二〇字には出てこない、〝本来この随筆が核心とすべきだったところ〟の読解について、ここでは中3クラスに発展問題として出題した設問をもとに読み解いていきたいと思います。

2009年度第1問 原研哉『白』③【論拠の構成の総括】:
 ・文系専用設問への対応
 ・文脈の細かい論拠の読み取り練習

 前回の記事で少し触れた〝日々の初心〟。一言で言えば、この文章は世阿弥が述べている〝三つの初心〟についての論考を下敷きに、原研哉氏が〝初心〟について概説を述べ、上手く述べられなかったので徒然草の引用でそれっぽく締めている、という未完の随筆作品である、と言ってよいでしょう。

 それゆえに全体の読解としては、意味段落による機械的な分節、要約でおおよそ事が足りてしまうのですが、本文中には結論段落には現れない肝要な部分が各所に残っています。前回述べたような〝無限ループの稽古〟の後に迎える晴れ舞台と、そこにおける〝初心〟の話です。実際にそこについてのオリジナル設問を解いてみましょう。

 
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 この二つの設問に通底するのは、ex4「活字・書籍」の存在です。これは、形式段落6のメディア論に通じる「活字文化・『本』という情報媒体」の話なのですが、ex3「白紙のうえに筆で字を書く」の存在が強すぎて(ex3が結論段落のex8「『徒然草』〝一の矢〟への集中」とダイレクトに連関するため)注目されることは少ないと思われます。事実これは、形式段落6そして段落7による補足によって述べられる〝ウェブにおける集合知〟に対する批判の根拠となっているのですが、本試験では出題されることは見送られています。

 グラフィックデザイナーであり、書籍の装丁に日頃携わっている原研哉氏としては、〝一度刊行されて出回ってしまったら取り返しが付かない〟という刊行物の現実に対する危機感が強くあり、それがウィキペディアなどのウェブの著作物に対する批判精神の源となっているのです。本来ならば、一二〇字で論じるべき文章の要の部分はここです。

 

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